96のチラシの裏:浦和レッズについて考えたこと

浦和レッズを中心にJリーグの試合を分析的に振り返り、考察するブログ。戦術分析。

やり直す彼へのせめてものはなむけになれば

柏木陽介のFC岐阜への完全移籍が発表されました。

今回の件には何と言っていいか…複雑な気持ちです。名古屋戦の直前にCOVID-19の感染者が複数出てしまい、その後も日程継続を目指して活動していたもののさらなる感染者が出たことで3週間近く公式戦が出来ないことが決まっており(それどころかトップチームの活動停止)、代替日程が確保できなければ0-3負けとなる今季のレギュレーションの適用が懸念されるガンバのことを考えれば、彼がしたことは許されることではないし、ガンバと同じようなことが浦和にも起きていたかもしれないと思うと寒気がします。COVID-19の感染はどんなに対策をしていても身内からの感染は防ぐのが難しいし、これからもすべてのチーム、個人にリスクがあることではあるのですが、少なくともリーグやチームが定める対策とそのための規律を破った責任は重く、さらには昨年の報道に続いてのことで、チームとしては看過出来なかったというところなのでしょう。その決定自体は妥当だと思うし、毅然とした態度で対処したフットボール本部は間違っていないと思います。余談ですが、この件でフットボール本部長が会見を開いたのは浦和の近年の強化体制の良いところが出たと思っていて、毎回毎回社長とGMが出てきて謝っていた過去からすれば、トップチームの問題についてトップチームを管轄するフットボール本部長の戸苅さんが出てきて謝ることで責任関係を明確にしつつ対処できたと思います。

ただ、以前に健勇のエントリでも書いたのですが、好き嫌いと良し悪しは分けて考えるのが重要だといつも思っています。今回の件は良し悪しで言えば間違いなく悪いし、そこに擁護の余地はないと思っていて、良くも悪くも選手への親心が強く、対応が甘い傾向のある浦和が毅然とした対処で実質的な追放処分を科したことには全面的に賛成です。それでもなお、それでもなお、好き嫌いで言えば、特に自分自身のサポーターとしての歴史を踏まえると、どうしても「あんなやつは嫌いだ」とは言えないのが僕にとっての柏木陽介という選手です。

走るファンタジスタから浦和の太陽へ

世間が柏木陽介の名前を認知したのはいつだったでしょうか。広島ユース黄金期の中心選手だった彼は槙野や森重とともに2003年のクラブユース、Jユースカップ、2004年も連覇となるクラブユースに加えて高円宮杯のカップを掲げていましたから、もちろん広島のサポーターは早い段階から彼に期待していたでしょう。実際に浦和が黄金期を迎えようとする2005年に2種登録でデビューすると、ルーキーシーズンとなる2006年にはいきなり17試合に出場。僕が彼を認識したのもこの頃で、中盤のプレッシャーが最も厳しい位置でボールを受け、決して強いとは言えない身体を華麗に使ったターンで局面を変え、左サイドでプレーしていたかと思えば右サイドに出没し、前線、中盤、自陣深い位置とすべての位置でボールに触り、左足による素晴らしいキックと特別な深視力、そして相手の予測の裏を積極的に取りに行くアイデアでゲームに違いを作り出すプレーに、凄い若手がいるんだなと感じたのを覚えています。どの番組かは忘れましたが、2008年の北京オリンピック代表の候補選手を紹介する番組で紹介されていたキャッチフレーズは「走るファンタジスタ」。当時はまだ所謂10番の選手が攻守に走り回るというのは常識外で、その後の時代の変化を先どっていたかのような当時の彼のプレースタイルは世間の目にも、そして僕の目にも新鮮に映りました。

2006年途中に広島の監督に就任したミシャの下、2年目にはリーグ戦31試合出場と完全に主力として定着した柏木でしたが、翌2007年は自身はU-20ワールドカップに出場するだけに留まらずA代表にまで選出されたもののチームが降格、2008年にはオリンピック代表選考にまさかの落選等、広島で過ごした数シーズンは充実と挫折の両方が混在した、彼のその後のキャリアを暗示するようなシーズンだったかもしれません。当時の記事を漁ってみると、後にともに浦和でプレーすることになる梅崎とともに、落選について疑問を呈する記事が残っていました。

 おそらくどの試合も、守備の時間が長くなるはずだ。少ない攻撃の機会を、確実に生かさなければならない。その意味では、サポートに恵まれないなかでも局面を打開できる個人の力が必要になる。前線までボールを運べる選手がいれば、得点に至らなくても守備陣が呼吸を整えることができる。突破をしかけてファウルを誘えば、リスタートの獲得につながる。FKやCKは練習でパターンを練り上げることができるだけに、実力差を跳ね除ける得点パターンに成りうるのだ。

反町監督も、そのあたりは十分にわかっているはずである。それにも関わらず個人で局面を打開できる選手──梅崎司や柏木陽介を選ばなかった。フル代表の一員としてワールドカップ予選に出場した香川真司は打開力のあるタレントだが、梅崎や柏木との比較で香川を選ぶ必然性は乏しい。ユーティリティ性が重視されたことで“一芸に秀でたタレント”が少なくなった印象は否めない。いったい誰が、ナイジェリアやオランダのDF陣を困らせるのだろうか。

allabout.co.jp

まあ今見ると、ユナイテッドまでたどり着いた香川を選んで普通に正解やんけということなんですけど。戸塚さんドンマイ。

で、海外移籍も視野に入る将来有望なスター選手としてのキャリアを賭して、そして自らが主力としてチームを降格させたという責任を全うするかのように10番を背負って2008シーズンのJ2を戦い、一年でJ1に復帰。2009年も復帰したJ1で33試合に出場し昇格組ながら4位の好成績で将来の日本サッカーを担うタレントであることを証明すると、翌2010年シーズン、ユース黄金世代を中心にパスサッカーへの大胆な転換を目論見ていたフィンケ・レッズのオファーを受け、浦和への移籍を決めます。

浦和での初ゴールは今でも鮮明に覚えています。2010年5月5日J1第10節ホーム名古屋戦。エリア内に飛び込んで二人を引き付けた元気の潰れながらの落としに合わせたのはまさかの右足。特別な左足があるのに初ゴールは右足なんて不思議だねと仲間と話したものですが、10年観ても右足のゴールなんてこれ以外にはダービーで決めたミドルシュートくらいしか覚えていません。移籍1年目で8番を背負い、ポンテや達也、元気、エジミウソン、そして以後長く戦うことになる宇賀神らとプレーした柏木。11月のアウェー広島戦で初めて歌われた彼のチャント「浦和の太陽・俺たちの柏木陽介」は、以後10年以上、彼の代名詞であり続けることとなります。

一方で、2010年は思ったほどの結果が出ず、自身の加入を熱望したと言われるフィンケは解任、2011年はぜリコの下苦しいシーズンを送ることとなるなど、思い描いた「ステップアップ」が実現しなかったことでこの時期の柏木は本当に苦しそうで、同時に彼のキャリアを考えると本当に申し訳ない気持ちだった記憶があります。

2012年シーズンからは恩師でもあるミシャが浦和の監督に就任。送り出してくれた恩師を迎え入れるという不思議な状況となった彼のキャリアですが、柏木は「申し子」としてミシャサッカーの中心であり続けることとなります。以後槙野や森脇、西川の加入に加え、Jトップクラスの質を誇るホットラインを形成した興梠の加入もあり、チームは徐々に完成度を高めていきますが、興梠の浦和レッズでのファーストゴールをアシストしたパスなど、彼にしか出せないパスはチームの無二の武器で、サポーターは彼のことを「浦和の太陽」と歌い鼓舞してきました。

2014年以来、毎年のように優勝争いに加わりつつも最後に勝てず、その裏でミシャサッカーを踏襲した森保監督の下広島が2012、13、15年に優勝を達成するなど悔しいシーズンを過ごす中で、柏木は夢であった海外移籍を徐々に諦め、浦和でのキャリアに賭けていくようになった気がします。年齢を重ねていく中で、海外に行くならJリーグを獲ってからという引っ掛かりも大きくあったのではないかと思いますが、彼にとっても浦和レッズが特別なクラブとなり、浦和を代表する選手としてJリーグを獲ることそのものが彼のキャリアの大きなテーマになっていったように思います。

しかし、2016年の最多年間勝ち点の獲得、2017年のACL優勝、個人としてはACLMVPの受賞を経てもなお、リーグ優勝の栄冠を掴むことは出来ませんでした。今思えばこの頃から、柏木はフィジカルとメンタルのコンディションが徐々に整わなくなってきたのかなという気がします。もともと足が遅くフィジカルが特別秀でているわけではなく、しかも好不調の波が大きいタイプでしたし、そのオフェンスコンダクターとしての特別な能力とミシャのチーム戦術が相まってチーム内では強烈な引力を持つようになっており、彼の出来がチームの出来に直結するような、そして悪いときはその悪さが明らかに目立つ存在になっていました。今思えば僕がミシャのサッカーだと思っていたものの成分の多くは柏木のサッカーだったのでしょうし、それだけのことを日本のトップカテゴリーの頂点を争う場でやっていたのが彼だったのでしょう。2017年オフに生まれ故郷である神戸への移籍が取り沙汰されましたが、最後は残留。ここで柏木は自分のキャリアをどうやって、どこで終わらせるのかを決めたのではないかと思います。

そうした覚悟の一方で、柄ではないキャプテンを引き受け、慕っていた先輩である黄金期のレジェンドたちが立て続けに引退・退団したことで、彼は本人のキャパシティ以上にチームと自身へのプレッシャーを背負っていたようにも思います。母数が多く好みが分かれ、求めるものが高いサポーターの声に晒され、肉体的にも怪我が増える中で、クラブはポスト・ミシャの時代を迷走し、年を重ねるごとにボール保持の連携やバランスが消え去り、クラブが明らかな下り坂を進む中で、それでも攻撃を回し、「あの日々」のようなサッカーを魅せることで自身の存在意義を示そうともがいていたというのがここ数シーズンの彼だったと思います。2019年はリーグ戦17試合、そして昨年はリーグ戦9試合の出場に留まっていたものの、リカルドの就任によってようやく彼に見合った役割が与えられるのではないか、復活もあるのではないかと期待があった中での、今回の出来事でした。

f:id:reds96:20210312203325p:plain

あの日々の太陽への餞別

僕自身の話をすると、自分のお金で自由にスタジアムに通えるようになったのがちょうど柏木が加入した2010年前後でした。正確には2008年の途中くらいだったのではないかと思いますが、浦和で育ち、実家に届く駒場の歓声を聞いて育った僕にとって、黄金期を経て、新しいスタイルのクラブになって再びリーグとアジアを制するんだというあの機運こそが僕の浦和レッズサポーターとしての第二の原風景なのだろうと思います。

だからか、あの変革の時期に所属していた選手たちには特別な思い入れがあって、わかりやすいところで言えばユース黄金世代の直輝や元気たちですし、ウメやセルの躍動に夢を見ていたのが当時の僕でした。思えばあの頃から、毎日毎日レッズの公式サイトでコメントを読んで、たいして新しいことが書いていないレッズの記事を読み漁って…という生活が始まりました。だから柏木が浦和にやってくることが決まったときの興奮や、その後にフィンケが辞めることになって混乱したことを今でも覚えていますし、直輝が退場して負けた旧国立でのナビスコカップ決勝の悔しさ、実質的な残留を決めたあの福岡の夜も忘れません。2012年からはミシャが来てサッカーが変わり、最初はパスが一番うまいのに柏木がパスの受け手であるシャドーをやっていて、足が遅くてカウンターに迫力がなかったり、でも柏木がいないと元気が窮屈そうにドリブルするだけになって攻撃が頻繁に詰まったりしていたこととか、興梠や武藤、チュンソンが来て柏木がボランチに降りるとゲームメイクの才能をいかんなく発揮してチームの核として君臨し、でもベアスタで毎年苦労していたことか、毎年のACLでの戦い、その後久々にタイトルが取れた2016年、2017年、そしてその後の再びの混乱…。柏木陽介がプレーした2010年代の浦和は僕が自分の意志とお金でクラブを追いかけ続けた最初の10年で、考えるまでもなく、彼のあの、思っていたのとは違った右足のゴールから、彼が浦和でプレーしたほとんどすべての試合を僕は観てきました。

こうして振り返ると、柏木にはたくさんの夢を見させてもらいました。直輝と柏木が中盤で組めば浦和のシャビとイニエスタになれるんだ、とか、興梠へのアシストだけでアシスト王が取れるんじゃないかとか、上から見ていてもわからないスペースが見えていたり、ゆるやかなパスがなぜか最高の位置とタイミングで味方に届いたり。おそらく彼があまりにも簡単そうに、普通のことのようにそうしたプレーを見せてくれるから、僕たちのハードルも結果、結果と上がっていってしまったのかもしれません。

きっとリカルドの下でその能力を誇示して、昨年の埼スタで見せたような引力の強さがチームを導くような、そんなプレーをもう一度見せてくれるのだと思っていました。リカルドは年齢にこだわらないし、戦術的にもトップ下は合っているだろうと。それで再びアジアの舞台に戻り、何かのタイトル、できればリーグを優勝して、まだできるだろと言われながら「もう十分」と言ってへらへらと引退をするのかと。それでいて最後の挨拶ではどうせ泣いて、その後は何をするんだろうと。確かに悪いときは全然ダメという選手だったし、メンタル的にも安定していたとは言い難いし、10年も観ていれば目につく鼻につくことはいろいろあって近年はサポーターからも強く批判されていたけれど、それでもお前は浦和の10番で、太陽で、まだリーグ優勝を、満員の埼スタに謳わせるあのチャントを諦めていなかっただろうと。

 

それがこんな自業自得じゃあ、救われないじゃないか。

 

 このたび、FC岐阜に完全移籍することになりました。

浦和レッズで11年間プレーさせていただきました。僕にとって浦和レッズというチームは特別です。正直、このような形でチームを離れるとは思っていなかったので、自分が招いたことですが、とても悲しいですし、何より申し訳ない気持ちでいっぱいです。

浦和レッズの一員としてACLなどタイトルを獲得できたことはもちろん、2011年に残留争いをしているときに苦しくて大変だったチームを優勝争いに近い熱量でみなさんに応援してもらったことが強く印象として残っています。
良いときも悪いときも変わらぬ声援をいただいたこと、それと同時に大きなプレッシャーや責任感を感じてプレーできたことは自分にとっての財産です。
ただ、その声援を背負い、最高のサポートをしていただいたにも関わらず、Jリーグのタイトルを獲得できなかったことがとても心残りです。

今日で浦和レッズを離れますが、FC岐阜でサッカー選手として、人として成長し、これまでの弱い部分を克服して、また埼玉スタジアムでプレーできるように努力します。

最後になりますが、ファン・サポーターのみなさま、パートナー企業のみなさま、そして自分を支えてくれた浦和レッズに関わる全ての方に感謝しています。

本当にありがとうございました

www.urawa-reds.co.jp

 

陽はまた昇るとよく言いますけど、「またいつか」とは、気軽には言えません。かといって「さようなら」とも言えない。寂しさと悔しさと、それでも彼がサッカーを続けられる場所があったという安堵が混じった「がんばれ」が、やり直す彼へのせめてものはなむけになればと思います。