96のチラシの裏:浦和レッズについて考えたこと

浦和レッズを中心にJリーグの試合を分析的に振り返り、考察するブログ。戦術分析。

『考える脚』の感想と過程の中にある幸福について考えたこと

ひさしぶりの書評です。

北極冒険家の荻田泰永さんの自叙伝で、サッカーと全然関係ないんですが、考え方が凄く良かったので思わず感想を書きたくなりました。荻田さんがどういう人かというのは本人のサイトにいろいろ書いてあるのでそれを見るのが早いのですが、いろんなところで紹介されているアチーブメントとしては、2018年1月の「南極点無補給単独徒歩到達」に成功(日本人初)が挙げられるみたいです。無補給単独徒歩到達というのは文字通り「一度も物資補給を受けず」「一人で」「徒歩で」南極点まで歩いていくチャレンジで、(エクストリームな冒険の世界で何が普通なのかはわかりませんが)自分が必要な分(だいたい50日とか60日分)の物資を全てソリに載せて、それを消費しながら一人で1,000km、2,000kmといった距離を歩いて目的地まで歩いていくという普通じゃない取り組みで、例えば北極点への「無補給単独徒歩到達」は世界でも一人しか成し遂げていない偉業らしいです。人間が立ち入れない場所がほとんどない現代の地球においては、こういう極地冒険でも定期的に空輸等で物資を補給しながら旅をしたり、無補給だとしても大人数でチームを組んで、物資が多い最初の段階ではみんなで、物資が少なくなり過酷さが増す旅の中盤にかけては物資の減りに合わせてチームの一部を帰還させ、終盤は精鋭だけで目的地にアタックするという戦術があったりするんですが、そのどちらも使わずに事前の自分の準備と装備、物資を一人で運びながら最初から最後まで自分の力だけで目的地を目指すというのが荻田さんの旅、ということになります。

本書は荻田さんの3つの旅の回顧録とそれに付随するエピソードの紹介が大部分を占めており、最初の北極点への「無補給単独徒歩到達」への挑戦、そしてカナダからグリーンランドへとスミス海峡を横断して踏破する「無補給単独徒歩」の旅、そして最後の南極点への「無補給単独徒歩到達」をそれぞれ詳細に振り返っていくのですが、まずは極地の大自然が織りなす過酷すぎる旅の情景やそれに挑む冒険家の心情がストレートに描かれている冒険描写が魅力です。最初の北極点への旅は荻田さんにとっては2回目の挑戦となるのですが、そこに向かう準備、2回目だからこそわかる恐怖、そして冒険が進むにつれて真の姿を見せてくる過酷な北極圏の環境を荻田さんが感じ、それに対処していく姿は僕(たち)のような一般人にはまさに異世界で、自分の想像が追いつかないような過酷な世界がそこにあるということを文章から夢想するだけでもエキサイティングです。ちなみに、夢想すると言っても北極圏の大自然がどうなってるかなんて普通文字情報だけでは想像しきれないので、本書に出てくる単語を画像検索しながら読むのがおすすめです。本書内にも時々写真が出てくるんですが、過酷さを理解するには見てみるのが一番いいと思います。コロナ禍にあってなかなか旅行に行きづらい世の中だからなのか、本書で描かれる荻田さんの挑戦を読むと、自分も凄く旅に出たくなります。

冒険家の論理性と哲学

で、そういう大自然への挑戦を描く!というだけでも凄く面白い本書なんですが、そうした活動を通じて示される荻田さんの論理性や考え方に触れるのが本書の一番楽しかったところでした。冒険ジャンルって、高度にエンタメ化された映画やゲームとかがわかりやすいと思うんですが、予想外のピンチ!とか絶体絶命!ってシチュエーションを何とかして生き残るようなスリリングな展開が魅力(実際僕もそういうのが好き)だと思うんですが、荻田さんは本書の中で、考え方としても行動としても、それを真っ向から否定するわけです。考えてみれば当然なんですが、「無補給単独徒歩」というエクストリームな縛りプレイの一番難しいところは、修正がほとんど利かないことです。一人で、しかも徒歩で持ち運べる物量には当然制約があるわけで、なるべく旅の期間を長く、それでいて最低限、最軽量の物資を用意する必要があるのですが、ストイックに物資を調整すればするほど、想定外への対処のための物資は持てなくなるし、当然計画のバッファ(調整幅)も少なくなります。そうすると、「想定外」が起きること自体が失敗に繋がるわけで、荻田さんの言うところでは「想定の範囲内で終わらせることにこそ最大の価値がある」のです。ここに、冒険家にとっての論理の重要性がその輪郭を表します。要は、エンタメ化された冒険ストーリーに描かれるような想定外の危険や絶体絶命の危機を乗り越える一瞬のひらめきや身体操作というのは、それに頼らざるを得なくなった時点で冒険としては失敗で、本当の冒険の成功とは、すべてが想定内のうちに終わる、論理的な思考と準備に基づいたものであり、もしそれが機能せずにゴールできたとしても、「それは実力ではなく、運でしかない。」と荻田さんは言い切るのです。

言われてみればわかります。たしかにそうです。「無補給単独」なんだから、失敗したら助けは来ません。だからすべてが想定内でなければいけない。でもそうは言ったって、わざわざ北極圏や南極大陸まで行って冒険してるんだから、実際は冒険家ならではのスーパープレーでなんとか対処するわけでしょ?と思います。実際、旅の中でも想定外はたくさん起きています。思うように進めなかったり、知らず知らずのうちに道を間違えていたり。食料補給や歩くペースを調整しながら、荻田さんはそうした想定外に対処していくわけですが、最後の最後で、荻田さんは自らの論理を貫きます。

全部書くと楽しみがなくなってしまうのですが、荻田さんは本書の中で2度、道を退き返しています。どちらも旅が佳境まで進んだところで、ここで無茶苦茶苦労して進んできた道を戻るなんて、読んでるだけの僕でも「もう行くしかないでしょ~」と言いたくなるような局面です。で実際荻田さんもめちゃくちゃ葛藤していて、その迷いが2ページくらい描写されるわけです。最後には荻田さんは何が最も重要なのかの答えに行きついて、せっかく来た道を戻る決断をするのですが、その両方の決断に至るまでの思考が本当に素晴らしい。詳しくはぜひ読んでみて欲しいんですが、決め手はまさに上記の「それは実力ではなく、運でしかない。」。そしてそれを「美しくない」と言い切るのです。

この「美しくない」は、哲学です。「こうあるべき」という考え方です。2度の撤退の両方とも、「もうどうしようもない」とは言えない状況でした。「危険だけどもしかしたらこの先に行けるかも、まだ不可能じゃない」という状況で、それを止める理由が「美しくない」というの、最高じゃないですか?

僕らの日常生活でも、わざわざ極地まで行かなくても、こういう状況はよくあります。状況的に五分五分で、リスクを冒せば目標が達成できるかもしれない。結果を求めるなら前に進むしかない。そういう状況で何か胸騒ぎがして迷うこと、あるじゃないですか。僕(たち)はそのリスクで成功や評価や、何かしらの積み上げを失うことはあるかもしれないけれど、たいていの場合命までは取られません。だから結果を重視してリスクを冒してしまうこともあるし、本当はやりたくない、やらない方が良いとわかっている選択肢を選んでしまうこともあるわけですが、冒険家は違います。特に荻田さんの場合は「無補給単独」というエクストリームの極みみたいな状況で、失敗=死なわけです。誰もすぐに助けにこれません。一方で、極地への冒険は資金的にも要求が高く、出発地点へのチャーター機の手配等で冒険を始める前に1,000万円単位の費用が必要になるし、そもそももう二度とやりたくないような過酷な極地での徒歩遠征を、すでに一か月以上続けている「極限まで積みあがった」状況にあります。で、無茶苦茶悩んで、死ぬほど積み上げてきたここまでの成果を結果に結びつけるために死のリスクを冒すか全てをやめて退き返すかの極限の選択で、最後に意を決する心のトリガーは「美しくない」という言葉が引く。ものすごく示唆的です。この心の葛藤と決断を下すまでの考え方を追体験させてもらえる機会はなかなかないし、極限の状況に挑むプロが重大な決断を下すプロセスを知ることが出来るのはめちゃくちゃ貴重なんじゃないかと思います。

究極の決断は、哲学とそれを支える論理が行う。極限の状況で自らの命を賭ける冒険という行為は、社会性とか人間関係といった要素がほとんど排除され意味をなさない極地でこそ為される純粋な自己との対話であり、その中で自らの哲学を見出し、その哲学が自らを極地において生かす。こうした意味で冒険家とは哲学者であり、その思いが「考える葦」にかけた「考える脚」という題名として、本書に一本の太い筋を通しているように思います。

旅の意味と過程の中にある幸福

上述の論理性や哲学を一例として、本書では荻田さんの3つの冒険を描写するパートの合間合間で、荻田さんが旅を通じて行った自己との対話から生まれた社会や世界への理解がぽろぽろとこぼれてきます。何が本質なのかは僕には判断できませんが、その一つ一つがシンプルで筋が通っていて、ああそうなのかもしれないと思わせられます。それぞれが一つの大考察としてすごく纏まっているわけではないし、本当に合間合間に出てくるのですが、それが何となく繋がって、最後には荻田さんの幸福論になり、そこから必然的に(論理的に)次の挑戦が生まれるというストーリーが、本書の本質的な構成と言えるかもしれません。

こうした構成の起点になるのは、旅の意味や効用を示した以下の部分でしょう。

旅とは、日常と非日常の逆転にその本領があると私は思っている。多くの人は、自分の生活している世界から遠く離れたところへ旅行することに「非日常性」を求めていく。しかし、旅に出た価値が生まれるのは、行った先が日常となり、本来自分がいた場所が非日常に感じられる瞬間だ。その時、自分が知っていた世界、当たり前だと思っていた日常を別の見方で捉える視点を持つ。日常と非日常ではなく「たくさんの日常」を行き来できる人は、豊かな視点を持つことができるだろう。極地への旅は、私にとっては日本とは違う日常を営ませてくれる体験だと言えるのだ。

また別のところでは

旅とは努力で行うものではない。憧れの力で前進していくのだ。まだ見ぬ世界への憧れ、広い世界に触れた見知らぬ自分自身への憧れだ。歩くことは、憧れることだ。そこに行かなければ出会うことのできないものに出会うために、私は歩いていくのだ。

 非日常≒まだ見ぬ世界≒未知と言葉を変えつつも、彼の論は一貫してそれらとの遭遇を芯として続いていきます。

 そんな北極での冒険を長年続けていると、自分にとって「想定の範囲外」の活動を行うことが次第に困難になってくる。もしかしたら、それは単なる思い過ごしかもしれない。分かった気になっているだけの可能性もある。だが、完全に理解するのは無理であっても、それまで捉え切れなかったものに触れることができた、という実感は確かなものだ。できるできないの結果の話ではなく、未知の要素に溢れていたものを経験や技術によって「捉えた」と思えるかどうかなのだ。その果てしない繰り返しこそが成長であり、その確かで正しい過程の中に自分の身を置いているという実感こそが、冒険を行う意義でもある。

 これも凄いですよね。こう言われると、冒険という極限の行動の意味が、なんとなく僕たちの日常的な取り組みの中にも存在するような気がしてきます。僕たちも、彼のいう「冒険の意味」を日常生活の中に感じることができるわけです。例えばサッカーをする、観る、理解するの中にも同じように「それまで捉え切れなかったものに触れることができた、という実感」はあるし、仕事や勉強の中にもこうした実感を見つけることがてきるはずです。

これらの考えを経て、ストレートに示される幸福論は説得力があります。

 やるべきこと、やりたいこと、できることの三つが一致した人生とは幸せだ。私はこの一八年間、極地を歩きながら「自分にとっての幸福感」を追い求めてきた。なぜ極地を歩くのか。それはどこかに辿り着きたいからではない。北極点や南極点なんて、何の意味もない場所だ。私が欲しいのは、辿り着く場所ではなくて向かっていく方向だ。その長い道程の先に、きっと誰にも辿り着けない領域に自分だけは行けるだろうという思いがある。その、確かで正しい道程を自らの意思と主体で、能動的に歩んでいくことが目的であり、その道程の途中に現れる選択肢として極地を通り過ぎていくだけだ。今自分は確かで正しい道程を歩んでいるという実感こそが、自分自身の幸福感であり、目的とはどこかに辿り着くことではなく、正しいと信じる過程の中に自分の意思で身を置いていることである。目的とは、過程の中にあるものだ。その過程を全力で行きさえすれば、結果は 自ずとついてくる。そして、俺はどこまででもブースト全開で走っていけるのだと知っている。

 めちゃくちゃ良くないですか?これ。非日常的な冒険描写のパートから、それらを通じて行われた自己との対話、そこから生じる哲学と決断、そうした経験が形作る旅の意味。本書を通じて描写された全てから得られたこの幸福論。どこかに行くことが目的じゃない。正しい過程の中で未知に触れることこそが冒険であり、だから俺は幸せなんだって、本質的に冒険をすることそのものに自身の幸福を見出している、まさに冒険家じゃないですか。

読者としての僕は、この考え方と彼が冒険をする意味、そしてそうした考え方が導き出される過程そのものにすごく納得するわけです。論理に説得力があるから、冒険というエクストリームな経験や行為が抽象化されて、僕(たち)の日常の感覚に容易に落とし込まれて納得できる。この過程の正しさ、この感覚が荻田さんの論理と哲学にさらなる説得力を持たせて、またそれが一周して「正しいと信じる過程の中に自分の意思で身を置いていること」の正しさを強化する。非日常としての冒険に触れようと思って手に取った本書が、荻田さんの論理性を通じて僕(たち)の日常に多くの示唆を与えてくれる。ただ一人で極地を歩くという意味があるのかないのかわからない縛りプレイとも言える冒険を伝える本書が、非日常から僕(たち)の日常を照らすというのが、本書に触れる「旅」の意味であり、人生は旅であるというよくある比喩にすら、納得感をもたらしてくれるのかもしれません。

ちなみに、冒険のような意味が理解されにくい行為の意味づけについても、本書では論理的で前向きな荻田さんの見解が示されています。そして最後に彼が彼の経験と幸福論を踏まえて、次の挑戦を見出して本書は終わるわけですが、それがまた説得力があって良い。意味がわかるから応援したくなる。そういう意味でも、エクストリームな行為を論理で料理した本書は素晴らしく、読んで絶対に損をしない本であると言えると思います。

結果と過程:サッカーに戻って

で、翻って僕(たち)の日常であるサッカーを考えても、一部には荻田さんの考え方は参考になるかもしれません。クラブの長い取り組みとして「目的とはどこかに辿り着くことではなく、正しいと信じる過程の中に自分の意思で身を置いていることである。目的とは、過程の中にあるものだ。その過程を全力で行きさえすれば、結果は 自ずとついてくる。」という考え方は重要だし、こうした哲学を自分が応援しているクラブが示してくれれば幸せだなと思います。一方で難しいのは、クラブの取り組みを現場で表現する監督や選手たちはそれぞれ個人事業主で、彼らの人生の捉え方において「目的とはどこかに辿り着くことではなく、正しいと信じる過程の中に自分の意思で身を置いていることである。目的とは、過程の中にあるものだ。その過程を全力で行きさえすれば、結果は 自ずとついてくる。」という考え方があったとしても、結果主義の世界では過程よりも、「それは実力ではなく、運でしかない。」、「美しくない」結果が重要になることもあるということでしょう。だから哲学とは違う補強があるかもしれないし、哲学を無視してでも勝たなければいけない試合があるかもしれない。現実としてそうした状況はあるわけなので、本書で語られる非常に説得力のある幸福論が、クラブの成功を約束するわけではないことには留意しなければいけません。

一方で、そもそも成功とか失敗ではなく過程に幸福を見出すことが彼の論旨なので、勝てばファンが増え、負けが込めば興味を示す人が減るというサイクルから抜けだすには、もしかしたら彼の幸福論が役に立つのかもしれません。そういう意味では、「辿り着く場所ではなくて向かっていく方向」を見つけられたクラブとそれに同意できたファンは幸せだし、結果的にそうしたクラブの存在が長期的に大きくなっていくということもあるのかもしれません。

 

ということで、今回はここまで。目が早い人なら2、3日で読める読みやすい本なので、ぜひ読んでみてください。おすすめです。